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Chinatown in L.A.

 投稿者:ジャカランダ  投稿日:2016年 4月20日(水)03時07分17秒
  たっぴーさん、素敵な絵を見せてくださりありがとう。又楽しみにしています。私は全く絵を描か無いのですが、鑑賞するのは大好きです。Netflixでよく著名なアーチストのDocumentを見ます。最近David Hockneyを見ました。写真のコラージュが有名なので写真家とおもっていたら最近ペインティングを自然の中で描いた作品が沢山あってその大胆な構図と色の鮮やかなのにひかれました。さて先週末は台湾出身の友人と一緒にロスの中華街に2回乗り換えて電車で行きました。真夏の暑さでにぎわっていました。ヤムチャと日本ではいうのですがこちらは Dim Sum ディムサムという昼食をしてからショッピングをして茹でたピーナッツ、冷やした丸のままのココナッツの実のジュースを立ち食いというか歩きながらストローで飲んで実を土産に持って帰り割って中の白い皮肉?を削って食べています。カリカリとしてまあまあです。冷やして3ドルちょっとマーケットでは2ドルぐらいで一個かえます。ソーダーを呑むより健康にいいです。
ロスで電車に乗るのはちよっとした冒険です。その話は今度します。

Down By Sally Gardens

 投稿者:川井浩  投稿日:2016年 4月18日(月)20時10分17秒
  美しい曲に巡り合いました。 アイルランドの古い歌で、アイルランドではこの曲を知らない人はいないらしい。

Orla Fallon - Down By Sally Gardens
https://www.youtube.com/watch?v=j_VtaD9Wchk

Down by the salley gardens
My love and I did meet;
She passed the salley gardens
With little snow-white feet.
She bid me take love easy,
As the leaves grow on the tree;
But I, being young and foolish
with her did not agree.

柳の木の茂る辺りで 僕と彼女は出会った
彼女はその白雪のような足で
茂みを通り過ぎ 僕に言った
「この愛を自然な気持ちで育てましょうよ、 柳の木が茂るように」
だけど若く愚かだった僕は
それが分からなかった

In a field by the river
My love and I did stand
And on my leaning shoulder
She laid her snow-white hand.
She bid me take life easy,
As the grass grows on the weirs;
But I was young and foolish
And now am full of tears.

川のほとりでたたずむ僕と彼女
白雪のような手を僕の肩に差し伸べて彼女は言った
「人生を難しく考えないで(一緒に)生きましょうよ 川の堰(せき)に草が生えるように」
だけど僕は若く愚かだった
今はただ涙に暮れるばかりだ
 

絵にしたい風景

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月15日(金)13時26分16秒
  絵を書きたいという衝動に駆られるときがあるのですよね、タッピーさんには。 こんな景色だったら、タッピーさんならきっと絵にしていただことでしょう、と思いながら、春の夕方の風情を楽しんでまいりました。

さくら湖や、瀧桜のまわりの風情には、そんな絵心をくすぐられる風情がたくさんありましたが、大勢人が集まっていて、みなさんスマホか本格的一眼レフカメラタイプのカメラで、この瀧桜だけをねらっていました。

なんだか、これを撮ればそれで、満足というオーラが充満していて、この周りの風景、空気、そんなものを楽しんでいる風情が見られないような気がしましたが、実際は、みなさんそれぞれ、この春の宵の空気も楽しんでいたのかもしれません。

 

さくら湖、菜の花、瀧桜

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月15日(金)13時18分1秒
  福島県、三春町のさくら湖、そのまわりは桜が満開。 当地の名物、樹齢千年のしだれ桜、一名「瀧桜」。 滝が水しぶきをあげて、もりあがり、流れ落ちるような、桜の花の様から命名されたようだ。

仕事の帰り道に回り道をして見に行きました。 夕暮れ時で、桜のいろもおぼろげでしたが、菜の花の淡い香りが周りの空気に充満していて、まさに、唱歌の「おぼろ月夜」を思い出す風情。

おぼろ月夜 ドイツ・ヴェルニゲローデ合唱団withペーター・ハーバーマン
https://www.youtube.com/watch?v=9otBXBYvBgM

すばらしいペーター・ハーバーマンのおぼろ月夜でしょう? そんな情景でした。

写真は、こじんまりとしたさくら湖、菜の花、瀧桜。

仕事を一瞬忘れる瞬間でした。 今日は、また仕事だけど、仕事をできるというのもまたありがたいことだ。
 

福島へ影響はあるだろうか?

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月15日(金)11時13分44秒
  3日前から福島県の郡山近くに来ています。 さすがに当地では地震は感じませんでしたが、火山列島の我国、どこにいても、いつ何が起きてもおかしくありませんね。

いつもは、地震、雷、火事、おやじ、あるとは知っていても、ついつい忘れがち。 お互い、いざというときの備えをちゃんとしないといけませんね。

 

震度7の地震

 投稿者:たっぴー  投稿日:2016年 4月14日(木)21時32分12秒
  熊本で大きな地震が起きたそうで、心配です。
 

現在の時間

 投稿者:たっぴー  投稿日:2016年 4月14日(木)20時56分9秒
  BSで「なんでも鑑定団」を見ながら、BSフジの「プライムニュース」を見ています










 

タッピーさん、絵だけじゃなくて、文章でもお待ちしています。

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月10日(日)14時52分35秒
  また、あたらしい絵ができたら、ぜひ紹介してください。 また、絵だけじゃなくても、文章だけでも、ぜひご自由に書き込んでください。 このところ、投稿者が増えていないので。。。

 

タッピーさん、ようこそ!

 投稿者:川井 浩  投稿日:2016年 4月 9日(土)19時28分20秒
  こないだの同窓会ではお話するチャンスが無くて、残念でした! 僕は、お花大好き人間ですので、静物画としての花も大好きです。 現実のカラーなのか、タッピーさんのイメージの中のカラーなのか、わかりませんが、とても素敵なカラーコンビネーションですね!

http://www.a-root.jp/sekison/usui/usui.html

お花も大好きですが、今回は、大胆にも裸婦の大行進! 自分のなかで、花も好きだけど、裸婦も好きであるということを発見しました。 まぁ、その好きという内容は十分吟味が必要ですが。。。

今、5日間の大阪出張を終えて、帰宅する新幹線の中にいます。 大阪の見本市会場はインテックス大阪といって、南港に近い見本市会場ですが、そこにも裸婦の銅像が何体も立っているのです。

かねがね、裸婦という題材を描いたり、造形したりすることにある種の疑問をもって68年間生きてまいりました。 人は、なぜ、裸婦を描くのか? あるいは、彫刻するのか? で、どの裸婦もおしなべて、セクシーじゃない。

だんだん、タブーの域に近づいている自分を感じていますが、男性としては女性の裸体を見れば、期待される行動がDNAに焼き付いているので、当然のごとく、男性としての役割を強く意識し、その役割を果たそうとするものの、人間の理性というか、社会性というか、しがらみのなかで、本来の男性としての期待される行動を、心ならずも制約せざるを得ない事態に遭遇する。

そこで、男性は悩む。 自分は期待されているのか、あるいは、期待されていないのか?

ましてや、女性が描く女性の裸体というものにはどのように接すればよいのか? これは、誘導尋問なのか? ずるい女性のわななのか? それにしても、なぜ、女性の描く女性の裸体はこのように男性にとっては、本来の男性に期待される行動を抑圧するような効果を持つ絵になるのだろうか? それは女性のジェラシーなのか? 男を生け捕りにするためのわななのか?
男に埋め込まれたDNAを殺して、社会的に求められるモラルを確認するためのフィルターなのか? 裸体画とポルノグラフィーとの境目、違いはなんなのか? 女性の体というものを物体としてみろという拷問なのか?

あるいは、西欧の絵画の伝統として、純粋に絵をかくための技術を学ぶための肉体を客観的に描くための練習ということなのか? レオナルドダビンチの歩んだ道を歩みなおせということなのか?

なぜ、デフォルメしても構わないから、ニューヨークの近代美術館のモジリアーニの裸婦のような女性の魅力を前面に押し出した裸婦を描かないのか? Playboy MagazinのVargasのようにモダンな女の子ののピンアップガールズ風の絵を描かないのか、あるいは、もっとアンドリュー・ワイエスのようにもっと写実的に描かないのか?

一般的な、裸婦像は男性にとっては、かなりつまらない女性として描かれている。 せっかく女性に備わっている、美しさ、チャーミングな魅力、コケット、危うさ、嘘、ずるさ、そのような、女性の特性をすべて消し去って、なにか物体を描いているような、あるいは、モデルとしてきてますけど、いやいや脱いでます、という気分がこちらにも伝わるようなそんな絵が多い

どうしてなんだろう?

中世において、あるいは、かつて、写真とかが無い時代の裸婦の画はブルジョワの男性のいわばポルノグラフィーだった。 レンブラントも、第二婦人を愛情をこめて書いたように言われているが、いわば、夫人をポルノグラフィーのモデルとして描き、多額の報酬を得ていたといっても過言ではないと考えています。

それは、単なる裸婦のスケッチではなく、愛情を示すまなざし、あらわな胸元、それらを大胆に描写した光と影の魔術師レンブラントの絵だ。 これがポルノグラフィーでなくして何だろう。

あ、また、タッピーさんに議論を吹っかけている自分を感じる。 同窓会で、議論を吹っかけそこなったせいではありませんが、こんな、下種な男の裸婦像に対するコメントに、君は芸術家としてなんと答えるだろうか?
 

今間違えてEnterを押してしまいました

 投稿者:たっぴー  投稿日:2016年 4月 9日(土)12時55分9秒
  孫に私のことを「おばあちゃん」ではなく、たっぴーと呼ばせています。いくらか若い気分でいられるような気がします。

石村さんのホームページに絵を追加していただきましたのでご覧ください。